下門前町 町内会日記

会長の仕事と町内会の活動記録

地図で見る下門前町の歴史

たいそうなタイトルをつけましたが、たいした内容ではありません。一昨日、やすらい祭の準備中、掛軸の箱書に「昭和六年四月吉日 門前裏南町」と書かれているのを見つけ、町名の変遷に興味を持ったので手持ちの地図を引っ張りだしました。

下の写真は天保二年彫刻、慶応四年(明治元年)再刻の「京都細見図」です。この地図には当時の京都の町名がほとんど記されています。

写真の上が北。右上を斜めに横切る黒い太い線が賀茂川です。画面左にひときわ目立つのが大徳寺。「寺領二千四石」とあります。周りに堀を巡らせてさすがの威容です。

このあたりに町らしきものができるのは、鎌倉時代の末に大徳寺ができて以降のことです。精進料理の大徳寺一久さんが文明年間(1469-1486年)の創業ということですから、室町時代には門前町が形成されていたと思います。

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画面中央、大徳寺の東側を南北に走る通りが大宮通(現在の旧大宮通)です。下から四分の一ほどのところでカギ型に折れて、赤く塗られた今宮御旅所から現在の大宮通に合流しています。

大徳寺と今宮御旅所の間の赤く塗られた区画が今も残る雲林院雲林院の北隣に「本光?イン」という赤く塗られた寺院の区画があり、その北に接する東西の短い通りに「ウラ丁」という文字が見えます。

京都の町割りは通りを挟んだ両側町が基本なので、この地図でも通りに町名が書かれており「ウラ丁」の文字は町名を表します。下門前町はちょうどこのあたりになります。

「ウラ丁」の東、空き地のような区画に「ウラ門前」という文字が見えます。こちらのほうが町名のような響きですが、明らかに何かの区画を示しており「丁」ともついてないのでやはり町名ではなさそうです。

門前町周辺は江戸時代「ウラ丁(裏町)」という町名だったようです。後に、掛軸の箱書きにあった「(門前)裏南町」になったとしても筋が通ります。

大宮通(現在の旧大宮通)が大徳寺の門前通りとして賑い、上賀茂や西賀茂に通じる街道でもあったので、メインストリートの「ウラ」という意味なのでしょう。

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明治や大正時代の地図を見ても京都細見図の描かれた幕末から、たいした変化はありませんが、昭和に入ると急速に開発が進みます。

昭和5年(1930年)には、市電が千本通から大徳寺前まで伸びてきます。市電を通すために北大路通りもできました。翌昭和6年には市電と北大路通大徳寺前から上總町(後の烏丸車庫前、現在の地下鉄北大路駅)まで延伸します。

上の地図は、市電が大徳寺前まで来ていることから昭和5年ごろの状態です。大正13年の地図と比較して市街地が一気に拡張しています。まだ新大宮通はありませんが、下門前町の辺りはすでに現在と同じです。

大徳寺門前から賀茂川までの間は、まだほとんどが空き地ですが、画面右上、植物園の対岸では区画整理事業が進んでいる様子もわかります。

昭和6年には第三待鳳小学校(現在の鳳徳小学校、僕の母校)も開校しているので、区画整理事業はほぼ完了したはず。

これは推測に過ぎませんが、同時に町割りも見直されて「(門前)裏町」が「門前裏北町」と「門前裏南町」になったのを機会に、やすらい祭で使う掛軸も新調されたのもしれません。(下門前町になったのは? 北区ができた昭和30年?)

町内の古老から「昔はこのあたりから賀茂川の堤が見えた」と言う話を聞いたことがあります。「ホントかな~?」という気持ちもありましたが、地図を見る限り昭和の初めまでは確かに見えたことでしょう。

大徳寺と賀茂川の間のほとんどは昭和初期にできた新興住宅地なんですね。小学生の頃、学校のまわりと自分の家の辺りは何か雰囲気が違うと感じていましたが、そのわけもわかりました。